
通話は昔から苦手だった。
どちらかというと、要件を簡潔に伝えられるメールの方を好んでいる。
家族も友だちも差異はない。自分から電話をかけることはごく稀だ。
あの、「声」だけで情報を与えられる空間が苦手でたまらない。コールセンターのような仕事は、俺には絶対向いていないと断言できる。
そう。つい最近まで、確かにそれは苦手に分類されるものだったのだ。
「……じゃあ」
『…うん』
「…ゴリラ」
『……硬い?』
「──ふっ」
ベッドの上、吹き出してしまう22時。
なんとなく彼女にかけていた水曜夜の電話は、いつしか俺のなかで習慣に近いものになっていた。
「あははっ、硬い? ぐっ…ふふ…」
『…待って! やっぱり強い!』
「…はははっ! ゴリラのイメージすご」
『………』
「……あ」
はた、と我に返って、自分でも笑い過ぎたと体を起こす。
ベッドが軋み、目の前の真っ黒な画面上には、少し焦った顔の俺が映る。
彼女との認識がどれほど合致しているのか。
互いに出したお題の、一番最初に浮かんだイメージを告げるこのゲームは、ふとした瞬間に始まり、それと同時、すとんと空を切るようにあっけなく終わりを告げようとしていた。
(…ヤバい。笑いすぎた)
「いや、ゴリラは俺も強いとおも…」
『時間…』
「え?」
『もう、二時間くらい通話してるけど…大丈夫?』
どうやら、怒らせてしまった訳ではないらしい。
伺うようなその声に、内心少しだけ安堵して「あぁ…」と言葉を繋げる。
「…俺はまだ別に…。あんたは?」
『わ、私も…あと少しなら』
「そう…」
『…………』
「…………」
(…この…。苦手だ…)
乾いたような少しの間、切り出したのは彼女の声だった。
「じゃあ…」という切り口に、まだ彼女の声を聴くことができる。そんな不確かな確信を抱く。
この時間をまだ続けてもいいと、許された瞬間。
『…私』
「…え」
『私…! で…』
「…うそ」
決意は相当に固いとみえる。
突然、突き付けられた選択に戸惑うも、彼女の声音が揺るぎないので、もう後には退けないと、また、そういう不明瞭な確信を得た。
「ちょっと待って…ゲームってまだ続いてる…」
『………』
「…のか」
(…まさか。そんなこと、しないと思ってたけど…)
見えない互いの表情と、静まり返った辺り一面。
本当に、この薄い機械の向こうに彼女がいるのだろうかと、疑いたくなるような言葉は、喉のすぐそばで刺さったまま外れない。
何かを試されている訳じゃないだろう。
けれど、そう簡単にのみ込んでもいいのだろうか。
想像してみて、足がすくむ。痛い、絶対に。そんなの最初から分かってるから…。
「…い、いや」
(…もう。行くしかない)
間を拡げすぎても、辛くなるのは自分の方だ。
意を決してスマホを握りしめる。とてもじゃないが耐えられないので、強く目をつむった。
『………』
「…そ、のー…かわいいと、思う」
『……っ』
(ちがう、そうじゃ…なくて…)
「…かわいい」
『………』
「かわいいよ」
(──は、)
『………』
「………」
(っずかし~~~~……なにこれ。…うわーー…)
いや…こっから、どうしたらいいの…。
俯き加減の頭をもっと下げてうなだれる。
いま、顔をあげれば、テレビ画面に反射する自分の姿で、もっと羞恥に苛まれるだろう。
良かった。彼女が目の前にいなくて…。
羞恥との闘いが続く最中、うっすらと漏れる彼女の息づかいに異変を感じ、顔を上げた。
「…え…」
『…っず…っ』
「…泣いてる?」
「いや…」という声は明らかに湿りを含んでいて、一瞬「こんなことで」と口を開きそうになる。
けれど、そこで思い出す。
俺は、こんな場面で「かわいい」とか、そういう言葉をかけたことがなかった。
いつかの通話。友人に訊かれた質問に俺がどう答えたのか、彼女は知らない。
呼気の奥。
後ろ髪を引かれる彼女のいじらしさに、口の端が自然と結ばれる。
『…ありがとう。嬉しい』
「………っ…」
電話越し、だからだろうか。その返事が、ひどくはっきりと内側に流れ込む。
喉の奥、潜んでいた脈拍がドッと動きだした。
いつも感情まかせに、一方的に告げる中途半端な愛の言葉もどきは、これをもって完全な形に成り代わる。
彼女がその言葉にどう応えるのか。分かっていたはずなのに、いざ目の前に現れた回答に心は多幸感に包まれた。
それから、あと…数秒遅れてきた後悔とか。
『変なこと、訊いてごめんね』
「…まぁ、ちょっとびっくりしたけど」
『…うん。…ふふ』
「………」
『………』
「…もう、切ろうか。どうする…?」
『…うん。今日は、ありがとう…』
「…じゃあ」と、たどたどしい会話のすえ、彼女の言葉が遠ざかっていく。
その瞬間「言わなければ」と、咄嗟に身を乗り出した。
「あっ…」
『………』
「…また、電話するからッ」
上ずったような気がする。やってしまった。
なんて、要らない心配を乗り越えた先に見えたのは、彼女の笑顔。
いつもの、優しいあの顔で──。
『…うん。おやすみ』
───プツリ。
彼女との繋がりが途切れた瞬間、今まで感じていた微かな体温が途端に恋しくなる。
昔はあれほど、通話なんて面倒だと思ってたのに。
人は変わらない部分もあるが、案外簡単に変わってしまうものもあるのだろう。
例えばそう、恋愛なんてしたあかつきには、今までの常識は塵に等しい。なにも、通用しない。
スマホを手にしたまま、何かの間違いでもう一度かけてしまわないように画面を閉じて、そのまま後ろのベッドへゆらりと落ちる。
いつもは気になっていたはずの、やけに眩しい天井の照明は、今ではどうでも良くなっていた。
(…あー…。次は絶対…)
「…直接言お。かわいいって」
.
後日。
湊から掛かってくる電話の頻度が多くなり、行為中以外に「かわいい」と言われることが増えたのだが…それはまた別の話。
