
──ブブッ
短いバイブレーションが震えて、俺はすぐさまスマホを手に取った。
構内の雑踏ではどうしても彼女の声を聞き取り辛い。
それを知ってか否か、この時間帯は必ずショートメッセージで連絡が届く。
『駅前につきま』
(…駅前につきま?)
『した』
(あ。つきました、か)
何かあったのかと不安になる、その、一部途切れたメッセージ。
慌ててメッセージの続きを送ったのであろう彼女の姿が目に浮かんで、つい頬が弛緩する。
彼女と知り合って早二ヶ月。そうなれば、色んな部分が見えてくるというもの。
最初は大人しいというか、しっかり者のイメージがあったが、意外とマイペースで危機管理能力が欠けている気がする。
涙腺が弱いことは知っていたけど、感受性が豊かで、俺とは真逆の部分で笑うし泣く。
何本か一緒に映画を観たが、彼女の視点はやはり俺と違う。嬉々として感想を語る瞳は、いつもきらめいていて眩しい。
反射したおこぼれだとしても、俺はそれがもらえて嬉しいとさえ思う。
『わかった。待ってて』そう返事を送り、校門を抜けて駅へと向かった。通う学校が違えば、そのぶん顔を合わせる時間も限られてくる。
毎日会える訳でもないし、毎日連絡を取り合うということもない。
たとえば今日みたいな金曜日は、予定が合えばだいたい俺の家で落ち合って時間を共有する。
付き合うことになった後、そうやって自然と互いの時間を尊重する関係が続いていた。
ただ、ひとつだけ胸につっかえていることがある。
それは──。
.
「…はへ、名前?」
「…そう。彼女からなんて呼ばれてる?」
いつかの回想。
サークルの同級生と向き合う昼。
ハンバーガーにかぶりついた彼は、口元についたケチャップを親指で拭って「うーん」と目を逸らした。
「二つあるからなぁ」
「嘘でしょ」
「いや、あるある。外で呼ばれる名前と、ウチ限定で呼ばれる名前。まぁ名前っていうか、ほぼあだ名みたいなもんかな」
「…そうなんだ」
──呼称。
それは生きとし生ける者ならば、必ずしも必要となる認識コード。
もちろん俺にも「廣浦湊」という名前があり、このカフェテリアに座る生徒全員に親から授かった名前がある。
呼び方、呼ばれ方ひとつで関係性を推測できる便利な品物であり、暗に一喜一憂の刃物として作用する。
「外では普通に名前で~…家ではなんて呼ばれてるでしょーか」
「…トモくん」
「正解はダーでしたー♡」
「お゛えええ」
「なぁ、おい」
強烈な吐き気が襲ってきた後、ダーことトモキは「それがなんだよ」とシェイクをすすった。
今さら、コイツに相談して正解なのだろうかと思いとどまったが、よく話す仲で彼女がいるのは残念ながらこの男だけ。
あやかろう、どんなに遠い土地の神様だろうが。今は。
「…その、それっていつから?」
「というと」
「付き合って、どれくらいで呼び方が変わったのか」
「…えー…いつだったっけな。まぁ、一週間ぐらい?」
「ナルホド…」
参考になる、ならないの話じゃなかったか。
手元の伸びた冷麺をすすって、ゆっくりと咀嚼する。
やはり普通カップルは、苗字で呼び合うものじゃないのだろう。
俺たちは彼らと違い、未だにそれを認識コードとして利用している。癖なのか、単に恥ずかしいのか。
「廣浦くん」と、彼女は俺をそう呼ぶ。あの駅前で初めて顔を合わせた日からずっと。
「…なに、廣浦。名前で呼ばれてないの? もしかして」
「まぁ…」
「うわー。中学生かよー。甘酸っぺ~! ひゅ~! ワオワオ」
「………」
(…やっぱりコイツに相談するんじゃなかった)
「…タイミングがないんだよ」そう、苦渋の表情でミニトマトを飲み込んだと同時、トモキは黒縁メガネを中指で上に押し上げて、さも当たり前のような口調で言った。
「いや、タイミングとかじゃなくて…呼ばれて嬉しいから変えるんだろ。そんなもん」
.
「──くん」
「………」
「…廣浦くん?」
──ハッ。
急降下、夢から突然覚めたように俺は、目の前の光に視界を奪われる。
チカチカと点滅する書きかけの課題文。隣の方から聞こえてきたのは、彼女の呼び声。
「…あ、ごめん。なに?」
「バウムクーヘン、どれくらい食べる? 今から切るんだけど…」
「…俺は、少なくていいよ。一切れぐらいで」
「うん。わかった」と、冷蔵庫から駅前付近で買ったケーキ屋の箱を取り出して、台所に向かう背中。
彼女が俺の部屋にいて、自分の家のようにくつろぐようになったのはいつからだろう。
最初の頃は、冷蔵庫を開けることさえ、俺に都度許可を取っていた。
金曜日の夜。アパートの一室。テーブルに置かれたふたつのグラス。
「………」
(…呼ばれて嬉しいから、か)
バウムクーヘンを箱から取り出す、その横顔を眺める。
嬉しそうな顔。
そういえば、前から食べたいって言ってたやつだっけ。
シュガーコーディングがおいしいとかなんとか。
今は、甘いものが食べたいというより、せっかくなら彼女が俺の分も美味しそうに食べている顔が見たい。
まぁ、呼ばれるなら無難に名前かな…。
湊…、湊くん…。
「──ひ、廣浦くん…! 見て、これっ」
「………」
「…あ、ごめん……私…」
(…え、あ。)
「…いや、ボーっとしてた。どうしたの」
パッと、勢いよく振り返った瞳が、胸に刺さったまま離れない。
無表情で自分を見つめる俺に驚いたのか、つい声を上げてしまって我に返ったのか、どちらにせよ萎縮する彼女の元へ足を進める。
隣に立って覗き込めば、台紙の上のバウムクーヘンにコーディングされた砂糖の色が、一部分だけピンク色に変色しているのが見えた。
「…このバウムクーヘン、一日一個しか買えない限定品で…開けるまで分からない仕様になってて…!」
興奮気味に語る彼女。
なるほど。これは変色じゃなくて、敢えて色を変えているらしい。砂糖の色がピンクに変わっただけで、味に変化はないのだろうが。
「…へぇ。良かったね」
「うん…! どうしよう…ちょっと写真…」
ポケットからスマホを取り出して、カメラを起動する高揚した横顔。
心なしか赤く染まった頬が、胸に焼け付く。弱火で、じっくり焦がされたまま到達した生き地獄。
もしかするとこれが、実在するかさえ知れない「その時」なのかもしれない。
──カシャッ
「あ。これ、廣浦くんが──」
「待って」
「え?」
「名前で呼んで」
「………」
「湊って」
もう一度、彼女の「え?」という素っとん狂な声が聞こえる。
「…い、今?」
「そう、今」
「どうしてもいま聴きたい」と付け足せば、より一層強くなる瞳の収斂。
その見つめ合う時間は、今までにないくらい心拍数が上昇するのを感じた。
「…あ、その…」
「待ってもいいけど、言ってくれないとこれ食べない」
「……っ…」
(自分でもズルいと思う、こればっかりは)
彼女が俺に、ピンク色の特別な一切れを譲ることくらい容易に想像できる。
本当は自分が一番食べたいだろうに。
「ね、呼んで」
距離を詰めて、耳元にかかった髪を指でかすめる。
頭上の照明がジジ、と居心地の悪そうな音を鳴らした。
「…は、は…」
「…ん?」
「…い、う…」
「み…?」
湿度の影響か少し生ぬるい首筋に口を寄せて、背後
からそっと体を抱きしめると、ますます彼女の体温は苛烈を極めて、ひとしずくの汗がきめ細かな肌へ滑り落ちた。
深更を包む織なら、もう準備はできている。
けれど、俺たちはいつも──。
「……み、」
「………」
「…っ、みな……あぁ…」
(…かわい)
「…湊……くん」
(──え、)
あ、ヤバい。
性懲りもなく俺は、気づいていなかったのだ。
自ら地雷原へ軽装備で足を踏み入れていたことなど。
顔だけこちらに振り返って、伏し目がちに真っ赤な頬を隠す彼女の、消え入りそうなか細い声。
想定外の攻撃に無防備な心の糸がピンと根を張り、なんどもなんども聴いた嬌声を、軽々と上回る追撃に体は即刻KO。
その、一挙手一投足。スローモーションのように切り取られて、脳裏でぐわんぐわんと揺らめいた。
まさか、こんな…。
「…ぐ、待って…。ちょっと…」
「湊くん…?」
「…がっ…」
「み、湊くん⁉」
とっさに彼女から身をはがし、はぁはぁと乱れる息を整える。
忘れていた。彼女が俺の盲点を突く天才だということ。
そして、自分が思ってる以上に、彼女のことを好きだと言うことを。
こちらから頼んだ手前でも、彼女の口から発せられる玲瓏な響きには耐えられない。
(…嬉しいとかもう、そういうレベルじゃない…これ)
「どうしたの⁉ どこか痛む…⁉」
「…大丈夫…気にしないで」
「で、でも…」
「…いや、ほんとに、なんでも…ないから」
心配する彼女の制止を振り切って、高鳴る鼓動を落ち着けるべく、全く関係のない話題を思い出す。
それでも顔に集中する熱は深みを増して、俺を解放してくれない。
──カシャッ
そんな折、こんがらがった頭の中をつんざくように響いたのは、えらく場違いなシャッター音。
(…は、シャッター音?)
「……え?」
「…ご、ごめん」
「…なんで」
「…顔、まっかで…かわいくて…」
「…………」
「…………」
「…つい」と、スマホで顔を隠す彼女。
いや別に怒らないけど、怒らないとしても。
無言のままスッと手を伸ばして証拠隠滅を図ろうとするが、スマホは彼女の手によって瞬く間に避けられてしまう。
「………」
「………」
スッ、スッ、スッ…。
しばらく静寂のなかで、無言の押し問答が繰り返される。二巡、三巡、うまくかわされる手のひら。
(…なにこれ)
「…はぁ、わかった。なんでもする。だから消して…頼むから」
降参、降参。俺は彼女から身を引いて肩をしぼめる。
これ以上の攻防は無意味。防戦一方だ。
すると彼女は、狼狽えた表情のまま掲げていたスマホを下ろし「じゃあ…」と口を開いた。
「…やっぱり…このバウムクーヘン、食べてほしい」
「………」
「ずっと、湊くんに食べてほしくて…買ってて…。やっと限定が出たから…」
「……なんかのジンクス付き? 恋のまじない?」
「…え、いや…おいしい…し」
「………」
「…特別だから」
「あ、私は前、友だちに分けてもらったから大丈夫…!」と、聞いてもないのに付け足される言葉。
あと、そう。彼女は噓をつくのが下手くそだった。
「なら俺たちも半分こね」
「…でも」
「大切な人だから、分けるんじゃないの?」
「ほら、一緒に食べようよ」
取り出した二本のフォーク。ピンク色のバウムクーヘンをひとつの皿に乗せて、彼女に差し出す。
「…──」
初めて口に出た、知らない響き。
念を押すためごく自然に発せられた彼女の名前は、自分でもわかるほど粗野であまったるい。
その名前を呼ぶだけで、こんなに鼓動が速くなる。こんなにひるんで足がすくむ。
こんなに愛おしくて、たまらないのは──。
「…うん。湊くん」
