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『ハロー,ネイバー』

ロクハート.png

​続編本編後、ロクが清掃バイトをする話


 


 

 

「これはこっちで、これはあっち! これはそこ!!」

「ぉ、あ…こっち、こっち…ッ!」

「これはなぁ、こう…まとめんねん…。お腹と膝でこう、ガってな……潰す! わかった!?」

「…は、はい!!」


 

何年も働いている玄人特有の、豪快すぎる指示語で説明する彼女を前にロクは、見よう見まねで分厚い冊子に力をいれた。

「返事はきもちいいのよ」「そんな細い腕で大丈夫かいな」
と、小言を言われながら仕事をするのは、生まれて初めてのことである。

だが、言葉とは対照的にロクの心は、威圧感のようなものを受け取ることはなく、たまにあなたがする「愛のあるお説教」に近いものを感じていた。

彼女──スンダさんの瞳に映る自分は、歪んでみえない。どっしりと、実直に一直線に見てくれる。
それが、ロクはとても嬉しいのだ。


 

「はは。またやってる…」

「階段終わったんか?」

「おわりましたー。てかまた鳩のフン落ちてましたよ。こまるなぁ、誰かエサあげてるのかな」


 

「そんな変なやつおらんわ」
ぴしゃり、スンダさんが休憩室に入ってきた男を一瞥して、再びロクに鋭い視線をやる。


 

「ねぇそれー、やめましょうよ。ロクくんだってそんな説明じゃわからないですって」

「なんや、わからんのか?」

「…わからない、です……」

「ほらね」


 

それやったら早うゆってくれればええのに、なんて言われても、彼女がロクのか細い声を聴き取れるとは思えない。

また、助けられてしまった…。
ロクは手に冊子を握り締めて、今にも壊れそうな掃除機に手をかける彼を見る。


 

「…あ、あっ…。ありがとう…ございます」

「いいよいいよ。分別とかよくわかんないよねー。最初は表見ながらやればいいから」

「(や、やさしい…)」


 

「じゃあ俺、廊下ちゃちゃっとやってきますわ」
そう言って彼は、休憩室を後にする。

休憩室といっても、ここはただ廊下から仕切られているだけの、言わば社員専用の通り道。
清掃のバイトを始めて、ロクが振り分けられたのは、三階のフロアだった。

パートリーダーである60歳超の女スンダ、そして先ほどの40代なかばの男、通称フクさん。そしてロク。
固定の派遣社員はこの三名で、あとは他のフロアのバイトが周回で入れる時にこの階へやって来る。
地下にある更衣室で着替えをして、一階の事務室でタイムカードを押し、それから階段でここまで上がってくれば、お仕事開始ということだ。
エレベーターはなるべく使わないように、という暗黙のルールもあるとのこと。

さっきフクさんが言っていたゴミの分別表と、基盤の数字がやけに大きい時計。
そして謎のシーサーもどきのオブジェが置かれた小さいテーブルの上に、各々が持参した水筒ボトルや保温バックが置かれている。


 

「ロク、いま何時や」

「…今…11時…」

「12時まわったら会議室やるで。用意しとき」

「わ、わかりました!」

「それにしてもあれやなぁ、逆に字がおおきすぎると見づらくてしゃーないわ。学校の時計よりおっきいんちゃうの」

「……俺、わからない…です。が、学校…いってないから…」

「あたしも中学までしか行ってないで。金なかったからな」


 

「うちのとこだけ貧乏やってん」
そう言ってうははと笑う彼女に、ロクは無理やり口角をあげた。

どこに笑うポイントがあるのかはわからない。
でも、とりあえず笑っておけ。つらい時には笑っちゃえ。
これは、バイトを始める前にあなたから伝授された、社会を生きる必勝法のひとつである。


 

「…あんた、なんやその顔。ブサイクやでーやめときや」

「──あえッ、はッ…!」

「でもフクちゃんはあれやて、なんやエライたいそうな大学出てるーゆうてたけど」


 

「ほんまかいな」と呟いて、ゴミ袋を用意するスンダさんの背中を眺めながらロクは、またニッ…!とぎごちない笑顔をうかべた。

 

 

昼休憩がおわってしまう。
それはロクにとって、憂鬱でしかなかった。

急に信頼していた足場を外されたような感覚。広場の時計は、針が狂っているのではないか。
そう思えてしまうほど、あなたとの時間は一瞬だ。


 

「…よし。じゃあ行くね。ロクも仕事、頑張って」

「う、うん…」


 

いつもより控えめな声で喝をいれて、オフィスに繋がる廊下を歩いてゆくあなたを、ロクはじっと見つめる。
コツコツと遠のいてゆくヒールの音がなんともわびしい。

なにか変な噂を立てられると困る。なんて理由から、オフィス内で二人が話すことはなかった。
まぁそもそも、清掃員が営業中のオフィス内に立ち入ることはほとんどないので、会えること自体が奇跡みたいなものなのだ。

(…もっと、いっしょにいたい。もっと、もっと──)


 

「だれやあの子。カノジョか?」

「──ぎィ、え!!」

「わっかりやすいなぁ、あんたほんまに」


 

音もたてず背後へ現れたスンダさんに、ロクは慌てて振り返りあわあわと手を振りかざした。
どうしよう、隠さなければ。バレたら彼女に怒られてしまう──!


 

「──ち、ちちがッ、ちがいます!!」

「ええねんええねん。別にだれにも言わんよ。若くてええやないの」

「……いやっ、」

「前にゴミ回収遅れた時もあの子とおうてたやろ。全部お見通しやで」

「…う、うう」


 

もうダメだ、ロクは諦めて肩をしぼめる。


こうなっては弁明の余地もない。彼には彼女を欺けるような器量は、まだ備わってはいない。

バイトを始めて一週間。
ここまでなんとかギリギリのところで踏ん張っていたのに。ロクの頑張りは無に帰した。


 

「でもあれやな、キレイな子やん。後ろからしか見てへんけど」

「…え、はは…。へへ」

「なんであんたが照れとんねん」


 

「もう仕事はじまってんで、フクちゃんのとこ行っといで」

スンダさんに肘で小突かれた後、ロクは元気に返事をして、廊下を駆けて裏手の階段を降りてゆく。


一週間も同じ場所を回っていれば、嫌でも道順を覚えるというものだ。

お昼休憩が終わり、ここからはスンダさんではなくフクさんにお世話になるらしい。
なんだかんだスンダさんは、清掃バイトのパートリーダーでもあるし、この会社に勤めて長い。
ロクには想像もできない程、やることがたくさんあるのだ。

この時間はオフィス内ではなく、会社の敷地内にある広場や駐車場の清掃を行うことがある。
週に三回。今日がその日だ。


 

「(早く、いかないと…っ)」


 

タッタッタ…


ロクは、一階まで降りて職員用の網状の扉を開き、近くに設置されている用具入れからほうきを取り出して広場の方へ足を進めた。

そして、ちょうど目線の先にフクさんの背中を見つけて、パッと顔をあげる。


 

「──あっ」

「…!」


 

──ばさばさばさっ

ロクが声をあげるのが先か、数匹の鳩が上空へ羽ばたくのが先か。

視界が灰色で遮られる。


その真ん中に、狙いうつように彼の姿がのぞき見えた。
以前、その穴には、確かな信頼感みたいなものが埋められていたのだけど。もうすっかり、美味しそうなドーナツになってしまった。

ドーナツ、どーなつ?


 

「…あぁ。ロクくんいいところに、これ──」

「な、なんで…。なんで…ハト、そんな」

「………」

「…け、けってた」


 

彼は右手で差し出していたゴミ袋をさげて、眉をハの字に曲げる。

だって、無理だろうこんなのは。核心を突き刺されては、そうそう誤魔化す気にもなれない。
諦めているのだ。すべて。


 

「…蹴ってはない」

「……」

「すんでのところで止めた。無罪だよ、俺は」


 

「許してくれる?」
そう言ってフクさんは、ゴミ袋を地面に置いて石段に腰をかけた。

ロクは、首を縦にも横にも降ることはない。
ずっと彼の顔を見つめている。
澄んでいてそれで、偏屈のつまった丸いビー玉を通して。


 

「…いや、うん。言い訳するつもりはないんだけどさ。ちょっと悩んでて、家のことで」

「……いえの、こと」

「実家、帰ってこいって言われてんだ。もう親どっちも年齢いってるし…いつまでもフラフラせずに定職に就け、って。弟に言われちゃった」


 

何に恥じているのか彼は、ポリポリとこめかみを掻いてうっすら笑顔を浮かべる。

やっぱりどうしてもロクにはわからなかった。
わからないというのはなにも、その言葉に対する適当な返答ではない。

何故──「他人に言われた通りにしないのか」が、理解できなかったのだ。


 

「…ごーめん。変なこと話しちゃって。仕事しないと──」

「ふ、フクさんは…すごい、だいがく?に行ってたって」

「…え? うん、そうだよ。…えーやだな。誰から聞いたの?」

「それっ…すごいって思い、ます…。俺は勉強、できないから…ぜんぜん…」


 

「でも──」

でも、そう。
ロクはもう気づいている。

いや、ただ元に戻っただけ。
本来うけるべき光の施しを受けたことで、空へ飛ぶことができる。だれかに、手を伸ばすことができる。

嵐はやんで、春がきたから。


 

「…でも、それがいいこと…だってことじゃ、なくて…。みんな、みんながその…思ってることがあって」

「………」

「俺もずっと、いやなことあったけど…うれしいことも、あったから…。その、あぁ…っ…ごめんなさい……なんて、言ったらいいのか…」


 

自分の思っていることをうまく伝えられない。
その歯がゆさを感じながらロクは、まごまごと口を言葉をつむぐ。


 

「だ、だから…! えっと…。俺は…! やりたいなってことを、やればいいって…。思う、…ます」


 

「…わからない、けど」

グッと拳を握り締めて、そんな目で見つめられては仕方がないではないか。


実際、ロクにどんなことを言われても彼は、自分の道を突き進んだであろうし、そうそう人の心根は変わらないものだ。

けれど目の前の若者が、頑としてキラキラした顔で「夢みたいな話」をするので、フクさんはおかしくなって笑った。

そして期待した。
そんな、「夢みたいな話」に。


 

「…そう、そうかも。ロクくんの言う通りだ。俺もちゃんと、自分のやりたいことやるよ」

 

 

おどろく、かむ、またおどろく。

なんてったって、あのロクが! 自分以外の人間に興味を、関心をいだいたのだから。


何度噛んでも新鮮な驚き。
あなたはつい、箸をとめて、目の前の彼を見る。


 

「…すごいね、そんな……ロクが…」

「お、俺…。やっぱりへんなこと、言ったのかな…」

「い、いやいやいや! 全然、いいと思う…! いいアドバイスだよ」

「……」


 

嬉しいあなたとは正反対に、ロクの心は沈んでいた。

それもそう。
今まで人に自ら関わってこなかった彼にとって、誰かに意見をするというのは至極恐ろしいことで。
もしも自分のせいで、フクさんが仕事を辞めてしまったら…。なんて考えると、胃がきゅうきゅうして食事も喉を通らない。

すごく変な感じだ。
自分以外の誰かと話をするというのは、うれしいのにつらい。たのしいけれど、くるしい。
ジェットコースターに揺られたまま、彼はずっと地上に立っている。


 

「…もしかして、ずっと食欲ないのも…そのせい?」

「…う、うん」


 

あれからフクさんは仕事を休んでいる。
スンダさんの話によれば、一週間ほど有給をとったそうだ。彼が自ら休みをとったのは、それが初めてらしい。

もしかしたら本当に…。
スンダさんはさほど気にしてない様子だったが、ロクの中ではなにか黒いものが沸々と心の中で湧き上がっていた。


 

「ロク」

「…?」

「ロクは今、私が考えてることわかる?」

「? わ、わからない…」

「でしょ? それと同じだよ。他の人の心なんて見えるものじゃない。それにロクはロクで、その人はその人だから」


 

「ロクまでロクのまま。いつも通りでいいんだよー」

ふらっと視線をそらして、あなたはテレビの電源をいれる。


今日はなんだか、だれかと笑い合いたい気分。

バラエティーの芸人を見ながら頬をゆるませるあなたを見て、ロクの口角も自然と、すこしだけ上がった。

 

 

そうして一週間は、するりと過ぎていった。

非情にも感じるだろうが、ロクにとって途方もない仕事量は、フクさんのことも忘れてしまうぐらいの重荷である。
スンダさんのスパルタ教育は相変わらずであり、気づけば一日の時間はすぐに過ぎてゆく。
ありてい、人生とはそういうものだ。


 

「…みゃ~」

「あ、わっ──」


 

ドンッ

急に茂みから現れた小さな怪物にロクは、ほうきを持ったまま地面に尻餅をついた。

まだ子猫だろうか。
初々しいその柔らな毛並みは、まだお日様の匂いしか知らないといった様子で、不思議そうに目の前の青い顔をした人間を見ている。

大人の猫に威嚇されたことがあるものの、まさに小動物と言わんばかのかわいらしさに、ロクはつい仕事を忘れて手を伸ばした。

そうっと、そうっと…。


 

「──ロクくん!」

「あッ、おあ!」


 

大きく肩を揺らした人間に驚いたのか、子猫はヒュッと茂みの中に逃げてゆく。

すぐに声のした方角へ振り返るとそこには、走ってきたのか少し髪の乱れたフクさんがこちらに向かって手を振っていた。
作業着は着ていない。どうやら会社に訪れただけのようだ。

思ってもみない尋ね人に、ロクは顔をあげて急いで立ち上がる。


 

「久しぶり! 元気だった?」

「…え、あ…。はいっ…元気、です…!」

「そっかそっか。ごめんね、急に長く休んじゃって」


 

──あ、どうしよう。

フクさんは笑って「実家に戻ってたんだ」と告げた。
その瞬間、ロクの心は波音をたててざわめき立つ。

すごくこわい。
でも、俺は俺で、おれが、おれだから──。


 

「仕事ね、続けて…夢叶えるって親と弟、説得してきたよ」

「…!」

「実はお金貯めるためにこのバイトしててさ。いま勉強してんだ、建築士になるために」


 

何故お金を貯めるのか、勉強しているのか、建築士とはなんなのか。
ロクには全てが未知の世界だった。
が、それでも以前よりも吹っ切れたような顔で笑う彼に、安堵してゆっくり肩を落とす。


 

「…すごい。あの、ぜったいなってください! その、それに…!」

「あぁ。絶対なるよ。自信ある。てか、自信ついたから。君のお陰だよ」


 

「みゃ~」

先ほど茂みに逃げてしまった子猫がまた顔を出す。


二人がその声に振り向くと、彼女は隣の母親にすりよって、元気よく目を細めた。

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