
先ほどまで土を濡らして大口を叩いていた雨は、傘を差した途端に止んでいった。
校門を抜けて、狭い歩道を歩いていた女子高生二人は「あっ」と小さく声をあげる。
「……止んじゃった」
「だから……傘なんて買わなくていいって言ったのに」
二人で傘の中に入っているので、いつもの悪態がより一層耳にこだます。
そして、そのまま頭の中を通って、もう一方の耳から這い出ていった。
傘を買おう、いや買うしかない。
そう言ったのは、悪態をつかれた彼女の方で、本来の予定では、なけなしのお小遣いを割り勘して高級アイスを買うはずだったのだ。
新作、カスタードライチプリン味。ほどほど甘く、ほどほど爽やかな注目フレーバー。
彼女たちは、とにかくお金に困窮していた。
年頃の女子高生にはとにかくお金が足りない。
時間はあるのに頭がずっと向こうに置いていかれて、体が追いつかないのだ。五体さえも、親のいうことを聞かない悪い子なのだろう。
だから、多分。もうすぐ頭は従順になって、時間に追い抜かれてしまう。
傘を買う暇って、それこそアオハルじゃんね。
「…まぁ、安かったしいいけど」
「どうする? どっちが持って帰る?」
「私、いや」
「えーあたしもヤだよー」
とりあえず傘を閉じて、じっとり張りついた露を手首の捻りで追いやる。
「…先輩、大丈夫かなぁ」
そんな折、コンビニに寄るまでずっと話していた会話が再開された。
一個上の先輩の彼氏が、浮気をしていたらしい。
トロンボーンの先輩。
ショートカットでいつも笑顔を絶やさない彼女の、裏の部分。
悪態をつく側の少女は、隣で空を見上げる友人のように慰める心持ちになれなかった。
どうせ学校で泣いちゃうなら、休めばいいのに。
慰める側だって、好きでやってるんじゃないんだし。
薄情だと思いながら、そんな意地汚い本心は隠せない。
(所詮、恋愛でしょ?)
優しい友人は好きだが、話が地続きで嫌になる。
全然、雨の話をしていた時の方が楽しかった。同じ地続き でも、そっちの方が清らかで好きだ。
「あー、明日の課題って…」
「相性チューニング」
「……え」
「…だっけ?」
悪態をつく側の彼女は、またもや眉間にしわを寄せて、振り返った。
「なに?」
「ほら、先輩のカレシの浮気」
距離が遠くなって、友人の声がこもる。
殻に入れられたままなのは、私か彼女か。
「…やりたい気持ちは分かるけど、彼女がいるのに申し込むのはアウトだなぁ」
「そうかな」
「えー! ダメに決まってるじゃん! そんなこと彼氏にされたら嫌でしょ?」
「でも、もっと愛し合える人と出会えるかもしれないんだよ」
そう言うと友人は、少し目を開いて彼女を見た。
(──あ、しまった)
「……意外」
「…なにが」
「だって…今までそんなこと…。へー…そっかそっかぁ…確かにね、うん。ふふ…」
妙な勘違いの末、腑に落ちたのだろう。友人は頬を緩ませてあどけない瞳を細める。
事実を言っただけなのに。
彼女はその反応に軽くため息をついて顔を逸らした。
「二十歳になるのが楽しみだねぇ、ふふ」
「あーもうサイアク」
「最高の間違いでしょー?」
──お互い彼氏が出来たら、ダブルデートしようね!
パタパタと駆けてくる友人は、屈託のない笑顔で彼女に言った。
右手の小脇に入り込む腕。シャンプーの匂い。濡れた足元をものともしない、幼い傲慢は──。
そう、私たちはまだ子どもなのだ。
どうしてそんな風に笑えるの? 私は、恋とか愛とかを高尚に語る大人がだいきらい。
情念に触れた瞬間、きっとあなたは、私のことが邪魔になる。思い出として本棚に仕舞ってしまうだろう。
だから、あともう少しだけ、見ないフリを続けてもいいですか。
お願いします。
どうか。私をひとりにしないでほしい。
.
久しぶりに兄が帰ってくる。
特に仲がいい訳でもなく、悪い訳でもない。そんな兄が。
リビングで漫画を読んでいた私は、耳だけで母親から聞いたその知らせをうっすらと頭の中で反芻した。
眼前のひとコマ。ひとりのキャラクターが苦渋の選択を迫られる白熱必至の胸熱シーン。
自身の矜恃か、仲間の命か…。言わずもがな。
胸の片隅がズキリと痛んで、なんとなく、そのページから目を離す。
(…そっか。明日帰ってくるんだ)
「んー…。スーパー行けないから明日、余りもので済ますつもりだったのに」
「……いいじゃん。余りもので」
「なに言ってるのよー。せっかくお兄ちゃん帰って来るんだから、好きな料理出してあげないと」
「(親バカ…)」
キッチンで冷蔵庫の中を眺め、何を作ろうかと熟考する背中を一瞥したのち、ソファからむくりと起き上がり、リビングのドアを開いた。
廊下の先から吹く、少し冷たい空気が頬にヒリつく。
「もう戻るの?」
「テレビなにもやってないし」
「あらそう」
「お風呂沸かしとくわよー」
母親の声が、ドアを閉める間合いに届いた。
バタン、閉まる扉。
二階へ上がる階段近くの壁には、いつ落ちてもおかしくない写真立てが飾ってある。
いつか行ったテーマパークの写真。
サーキットのアトラクションで一生懸命にハンドルを握る私の隣、口を開けて笑う兄の明るい投影。
「おまえ、下手くそだなー」「にいちゃん! わらわないで!」
フラッシュバックする兄は、いつも昔の兄で、中学三年生くらいからどんな顔をしていたのかよく思い出せない。
この年になって、あれはいわゆるモラトリアムみたいなものだったのかと言われれば、違うと思う。
兄がこんな風に笑わなくなったのは、あの日。帰りが遅かった夜の──。
「ごめん、何でもないから」
そう、母の手を振り払ってひとり部屋へ戻る背中。
知らない人の匂いがひどくこびり付いた、浅ましい寂寥を家に持って帰って来た時。
(……気持ち悪い)
最後に見たのは、家を出ていく前日の横顔。
両親からの激励に応える兄は、やっぱり知らない人の顔になっていた。
大人なんかじゃない。
自分を好きになれない、かっこ悪い男の顔。
笑えないなら、無理に笑わないでよ。
なんで。私たち、家族じゃないの?
.
「おっかえりー! やだ、ちょっと背伸びた?」
「はは、これお土産」
翌日の夜。
玄関から聞こえてくる騒がしい物音。
母親の飛び抜けて大きな声はともかく、この位置からあいつの声が聞こえてくるのは珍しい。少し遅れてリビングからやって来た父親とも、なにか話している。
前はそこまで会話するような雰囲気じゃなかったのに。
「ねぇー。お兄ちゃん帰って来たわよー」
(……くると思った)
そんなに大きな声で話してたら、流石にここまで聞こえてくるっての。
母親の呼びかけに答えるように部屋のドアを開き、階段を下りる手前までスリッパを鳴らす。
「…久しぶり」
「…………」
私を見上げるその顔は、確かに兄のものだった。
けれど二年前とはちがう。
まとう空気が穏やかなように感じて、そこに立っている兄がまるで別人のように思える。
何も言えなくて、返すことも容易い返事を飲み込み階段を下りた。
玄関の三人を通り抜け、リビングへ入って父が見ていた野球のチャンネルを即座に変える。
「…もー。まだ反抗期?」
「母さん」
ぞろぞろとリビングへ戻ってくる足音。
母のため息をなだめるように声を掛けた父は、テレビ画面が坊主頭の少年からイラストの美少年に変わっていることに気づき、少し残念そうにテーブルへ向かった。
テレビ前のソファ。いつもの特等席。
再放送のアニメは、途中から見てもなんの内容も入ってこない。
ていうか、最悪。スマホを持ってくるのを忘れた。
「晩ご飯は食べたの?」「大学はどうだ」「髪伸びたわね~。切ったげようか」「あ、おじいちゃんにお線香、後であげてきてね。喜ぶから」
意識せずとも勝手に入って来る会話。
一方的な二人の言葉を返す兄の姿は想像に容易い。
でも、なにか──。
「よいしょ」
「………」
「お土産」
隣に腰かけ差し出されたそれは、変な形をしたキャラクターのストラップで、斑点模様がちょっと気持ち悪い。
いつ、誰がこんなものを可愛いと言ったのか。いらなさ過ぎて、逆に笑える。
「…どこに付けんの」
「スクールバッグとか」
「ストラップつけるの禁止だから、うちの学校」
「…じゃあ、傘とかにつけて」
(…いや、濡れるでしょ)
なんで傘なの、そんな言葉は飲み込んで、またテレビに目線を戻す。
キッチンから聞こえる母の声。それに返事をする父。
何故かそこへ戻ろうとしない兄は、私と一緒にアニメを眺めた。
絶対、興味ないのに。もう部屋、戻ればいいじゃん。
横目でチラリとその顔を覗く。
相変わらずその横顔は、何を考えているのかよく分からない。
整ったEラインは、もうずっと昔から健在だ。
女子なら誰でも羨むだろう平行の線を描く二重は、奥二重の私に喧嘩を売っているとしか思えなくてムカつく。
私がどれだけ努力しても越えられない位置にいる兄は、昔からずっと誇らしかった。
「──あ」
「キノコカートだ」そう呟き、背中を曲げる兄。
テレビ台のケースから取り出したのは、もう何年も触っていない家庭用ゲーム機のソフト。
いつしか、私ひとりで遊ぶようになって、友達も呼んで。兄と最後にプレイしたのは、いつだったっけ。
「…懐かし。ほこりかぶってる」
「……はい」
「あぁ…。ありがと」
ティッシュを差し出すと、兄はゲーム機の外側をティッシュで拭き始めた。
そして、おもむろにケーブルをテレビの後ろのプラグに差し込み、電源を入れる。
すると、さっきまで流れていたアニメの画面が切り替わり、ゲームのホーム画面が表示された。
ふざけて書いていた汚いイラストのメモや、当時好きだったキャラクターを模したアバターがわらわらと群れをなしていて、こんなの作ったっけと、つい頬が緩む。
「うわ、スゴイ。なにこれ」
「…カラオケのやつ」
「えー…そんなのあったんだ」
「近所迷惑だから開いたらママに怒られるよ」
「もう夜だし」
そのアプリを選択しようとしていたのでつい口を挟むと、兄は少し残念そうに眉をひそめて、カーソルを別の場所へ動かした。
今度は、挿入したソフトを選択するコマンド。
Aボタンを押せば、ウィィィンという読み込み音と共にソフトが起動する。
「…ひとりでやんの?」
(なんて、別に期待してた訳じゃないけど)
「いや、」と兄は、テレビ台の中からもうひとつのコントローラーを取り出す。
「やろうよ」
「………」
差し出されたそのコントローラーは、いつも私が使っていた種類のもので、久々に手に取れば意外と重いことに気がつく。
あの時はゲームに夢中で、コントローラーのことなんて頭になかったな。
けれど受け取った瞬間、兄からほのかに香った知らない匂いが、そんな郷愁を遠くの方へ追いやる。
ほら、やっぱりまだ孤独に囚われたまんまなんだ。
「…どのキャラで走ってたっけ」
「……ポニョン」
「え、どれ…これ?」
それ、とピンクのスライムのようなキャラクターを指さす。
走っている時の風の抵抗の描写が面白くて、それだけでお腹まで抱えて笑って。いま思えば、あれのどこが面白かったのか全然わからない。
でも、そういうことなんだよね。少しずつ、少しずつ…気づかれない程度に剥がれ落ちてゆく稚拙な仮面。
これ、生まれた時から勝手に張り付けられてたの。気づいてた?
──3,2,1,GO!
タイトル通り、キノコで形成された面のレースが開始される。
画面いっぱいに表示されるクソデカきのこをピョンピョン跳ねて、地面に着地する。兄は、この一連の動作が引くほど下手だった。
いや、それは数年経った今でも変わらないらしく、コントローラーの動きと同時に左右へ体を振る兄。
なんでもそつなくこなすのに、バランス感覚だけは機能してない。
「…あッ、く~」
「アイテムげっとー」
「落ちたらこんな時間ロスするっけ…やばいなこれ」
「……ねぇ」
「…何?」
「…また彼女変わった?」
あーほら、やっぱし。みんなそう。
私の言葉に、兄のコントローラーを持つ手がピクリ震える。
多分、自分でも気付いているのだろう。妹とうまく喋れなくなった原因なんて。
その、過剰な反応をしないところ、子どもじゃなくて大人っぽいね。馬鹿らしくて、笑えない。
高校生の時、一回訊いたら笑って誤魔化してたなぁ。全部バレてるのに。
「…うん」
──だからって、急すぎる。
私が求めていたのは、真摯な兄だって。昔と変わらない笑い方をする兄だって。
叶うなら、昔みたいに戻ってほしいなんて、未来を見てない願望をしちゃったのに。
「…もう、変わらないと思う」
そんな、こっ恥ずかしい言葉を真顔で言っちゃうような、兄に変わってるなんて──。
「あ、」
「……えっ」
「勝ったー。うれしー。俺、この面で初めて勝ったかも」
「下手くそだなー、ほんと」
嬉々とした声に、つい、テレビ画面から目を離してしまい、コントローラーを持つ手にも力が入っていなかったことに気づく。
この際、勝敗なんてどうでもいい。
私は、自分でも意味がわからないほど嬉しくなって、驚いて、顔を伏せる。
鼻の奥が溺れた時のように苦しい。
こんなところで泣くなんて、ありえないでしょ。マジ…。
「……は? まぐれなんですけど」
「はは、高校生にもなって負け惜しみ?」
「うるさ、調子のんな」
もう、会えないと思ってたよ。
──コツン、兄の腕にぶつける、コントローラーの先端。
今度は、少し軽く感じる。思ったより、重くないや。
「…おかえり」
「……ただいま」
当たり前のこと、ぜんぶ。当たり前のことなんだ。
眉尻を下げて目を細める兄の先には、仄暗い妄執なんて存在しない。
ぜんぶ、自分で決めて、自分の足で進んでいいんだ。何も気にしないで、笑っていい。
私たちは、ずっと、すっと待ってたんだよ。
「…彼女さん、こんど連れてきて。会いたい」
「え…。それは、ちょっと…」
「なんでよ!」
「二人ともー。ご飯できたからゲームやめなさいよー」
母の声が聞こえる。
あぁ、今日のごはんはなんだろう。
