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『春雷』

ロクハート.png

​本編前、施設にいた時のロクの話

(※動物の死描写、暴力描写あり)


 


 

 

これはもう、彼が「自分」というものを認識し始めた頃の話。

その時、ロクは五歳。
ようやく施設での生活に慣れ始めた彼だが、もちろん自分が何故この場所にいるのか、何故知らない人たちと共に生活を送っているのか。
「新山禄」という自分の本名すら、到底知るはずもない純粋無垢でなにも知らない子どもであった。

本来、正当で真っ当な保護施設ならば、この歳で彼は「うれしい」だとか「かなしい」だとかの感情を他人に伝える能力くらいは備わっていたのかもしれない。
悲しいかな。それは難しい話であった。

当時、児童養護施設というのは全国でみても数が少なく、杜撰でいびつな管理体制が敷かれている施設も少なくはなかった。
表向きは至極真っ当な明るい施設。
建物は比較的新しくホームページに掲載されたアクセス画面の画像も映りがとてもいい。
あらあら素敵。周りも緑で囲まれてとても素敵だわ。麗しいご婦人の声が聞こえてくるような、白を基調としたクリーンハウスだ。

ただ、その周辺には建物はおろか気候のせいで動物もあまり寄り付かない森の奥。辺鄙という言葉を使うのにも、いささか勇気がいるような場所にあった。

まるで、誰かから何かを隠すかのような。そんなふうに──。

 


 

「うわっ」



 

──ガシャンッ

幼い少年の突拍子もない声と、なにか硬いガラスのようなものが落ちる音。

先ほどまでイスのないテーブルで絵本を読んでいた彼の視界に、体のひと回り大きな青年の薄汚れたシューズが目に入った。
急に反転したような景色に、なにが起こったのかわからない。
そんな彼の小さな体を見下ろして、青年はあざ笑うように口の端を動かす。


 

「…今、なにかにあたったような気がしたけど」

「………」

「…勘違いか」


 

その声に反応した少年は、ガバッと顔をあげる。
けれども、彼はなにも言わずに、そしてなにを考えているのか、かくも表情の読み取れぬ瞳で青年を見つめた。

他の子どもならば、ひと回り歳上の青年にこんなことをされて泣かないはずがない。
そういえば、コイツあんまり広間に来てないよな。不気味なヤツだぜ。青年はその瞳から目を逸らせば負けだと言わんばかりに睨みつけた。
でも、待てよ。いや、やっぱりやめておこう。俺はいまコイツのことが「視界に入っていない」という体なんだから。
それに気づいた青年はなんだか嫌な気分になりながら、後ろについてきていた仲間を引きつれてそのまま少年の隣を通り過ぎていった。

その背中を見るでもなく、少年は鼻から流れてきた鼻水を拳でぬぐってよろよろと立ち上がる。
すると、その傍にひとりの女の子が駆け寄ってきた。


 

「…だいじょうぶ?」

「………」

「…あれ、ぜったいわざとよ。アイツ、みんなにああいうことするから」


 

「気にしなくていいよ」
と、優しい声音が彼の心に染み込んでゆく。
そうして、やっと自分がされたことを理解して、無意識に出て来る鼻水をずずっとすすった。


 

「……う、うぇ…っ」

「…はいはい。もう行ったから、そんな泣かないの」


 

よしよしと、黒い髪の毛をわしゃわしゃ撫でる。
堰を切るように泣き出したその声に、女の子と同じ年くらいの男の子も二人に近づいて、その汚れた膝小僧の泥を取ってやる。


 

「またアイツにやられたのか。こりないヤツだぜ」

「ちがう、他のヤツよ。おにいちゃん、ほんとに人の顔おぼえるのニガテね」


 

女の子の方が少し呆れたように「おにいちゃん」と呼ぶ彼を見下ろした。
「しょうがないだろ、ニガテなもんはニガテなんだ」そう言って彼も、女の子と同じ目線になるとロクの方へ視線を向けて眉をひそめる。


 

「おまえ。そろそろ何かいいかえしてやれよ。見ててハラハラするんだよ」

「………」

「悔しくないのかよ。あんなことされてよ。ふつう、もっと…」

「………」

「…だから、そうやって何も言わないからっ──」

「おにいちゃん!」


 

ぎゅっと、女の子が彼の腕を引っ張って呼び止める。

そうだ。そうだった。
コイツのは何を言ってもムダなんだった。何を考えているのかわからない。そんな奴。
嫌な時はああやって泣くくせに、助けた俺たちに「ありがとう」のひと言もないんだ。

別に、仲良くなりたいわけじゃない。
ただ、見ていてあぶなかっしい。そう思うだけ。
きっと、コイツは他の子どもとはちがう。なにか、きっとなにかが欠けているのだ。

(俺たちだって、普通の人たちから見れば、きっとなにかが欠けているんだろうけど)


 

「…ごめんね。なんでもないの…。あ、そうだ! これから他の子たちもさそっておにごっこするんだけど…。あなたもどう?」

「……っ」

「…あっ!」


 

「…いっちゃった」
何も言わずに、そそくさと廊下の方へ逃げていったロクの背中を見つめて、彼女はポツリ呟く。


 

「…アイツ。親がいないんだっけ」

「…そう。たぶん…生まれてすぐに」


 

仲良くなりたいわけじゃない。
けれど、あなた、わたしたちと同じじゃないの。

 

 

施設の外は手入れのされていない雑木林が生い茂っている。
敷地内を抜けなければ自由とされている子どもたちは、窮屈な心を少しでも軽くするためによく外の庭に出て体を動かす。

ロクとて、それは例外ではない。


せっかく鬼ごっこに誘われたにもかかわらず、彼はいつものようにひとり、無言のまま木の下に座っていた。
ちょうど日陰になっているそこは、ロクの特等席。
遠くの方から聞こえる明るい声よりも、彼にとっては湿った地面の感触の方がとりわけ心地よい。
体育座りでそこから眺める青空は、直接当たらないその光は、どことなく安心する。


 

「………」

「あ、こっちだこっち。ここがいいぜ」


 

(──!)

ざっざ、とどこか聞き覚えのある足音が、ロクの心臓をきゅっと締め付ける。

嫌な予感を抱きつつ、木の影からそっと振り返ると、やはりそこには朝に彼の体を突き飛ばした青年たちがたむろしていたのだ。
先頭に立つリーダーの彼は、ロクのことなど気づいていない様子で後ろの仲間たちと笑いながら煤まみれのシューズを履き直している。


 

「ここなら見晴らしいいだろ」

「確かに~。りょうちゃん頭いいー」

「マジでさ、それで撃つの? ほんとに?」


 

「あぁ。マジだぜ」
と、リーダーの彼はほくそ笑みながら何か長い棒状のようなものを肩にかけた。

それは、山の猟師が動物をしとめる際に用いる散弾銃。
すなわち、猟銃であった。
偽物ではない本物。
悪ガキの彼らが倉庫からこんな危ないものを発見し、使おうとしたとて止めてくれる大人はいない。
ゆえに彼らはひとつの「あそび」として、上空を飛び回る鳩を仕留めようとしていた。

もちろん、ロクはそれが動物の命を奪うものだとは気づいていない。
初めて見るおもちゃの最上級のようなそれを、物陰からキラキラした目で見つめる。


 

「鳩っておいしいのかな~」

「しらね。美味かったら俺にもちょーだい」


 

後ろの仲間の言葉を背に、彼は銃口を空に向けて一匹の鳩に狙いを定めた。
もちろん、未だ青臭い彼に銃を扱った経験などない。好奇心のみが、今の彼らを動かしている。

そうして、

──ドンッ!

と予想以上に大きな銃声と、反動が彼に襲いかかった時、その音に驚いたロクは思わず身を乗り出し条件反射で木の影から姿を現した。


そして、逃げるように彼らのいる方へ走ってゆく。

まさか、そこにロクがいるとは思っていなかった彼だが、今はそんな場合ではなかった。
自身が驚きのあまり体を後ろに引いてしまい、仕留めそこねてしまったのだ。


うまく開かない瞳と、焦げ臭い異臭のなかで、彼は意を決してもう一度引き金を引く。

──ド、ドンッ


 

「──うわっ!」

「チッ──」


 

二度目の銃声にも驚いたロクは、咄嗟に耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。
そして肝心の彼も、またも鳩を命中することはできず、舌打ちをしてバッと銃を地面に下げた。

(外した、俺が外すわけないのに! コイツのせいだ、コイツが急に出てきたから!)


 

「お前ッ! なにしてんだよ! 急に出てきやがって! このノロマ!」

「──うっ」


 

グッと胸元を掴まれ、目の開ききってないロクの顔を凝視する。

やっぱりそうだ。
その、まるで自分が目に入っていないような瞳が、更に神経を逆なでするのだ。


 

「このっ──」


 

反動で右手を挙げた時、後ろから仲間ふたりが慌てふためいて駆けてくる。


 

「りょうちゃんッ、ハト、見に行こッ」

「やばいよ!」

「わ、わかってる!」


 

──グッ


 

「お前も来い!」


 

無理やり掴まれた手をふりほどくことも出来ず、ロクは彼らと共に生い茂る山中へ入って行った。

そうして、たどり着いた彼らが目にしたのは、見るも無残な鳩の肢体。
片方の羽はすでに千切れ、外れて撃たれた胴体からはどくどくと赤黒い血液が流れている。


年端もいかない彼らでも容易に想像できた。
もうコイツは、助かるはずがない、と。


 

「…こ、これ…」

「りょうちゃん…」

「………」


 

冷や汗が額から滴り落ちる。
こんな感覚は、彼にとって生まれて初めてだった。


いま、自分の足元に転がる、今にも消えそうな命の灯火はどんな顔で俺を見るのだろう。
一向に開かないしおれた目と、じょじょに動かなくなる体の音。

どうすればいい。どうすれば許されるのだろうか。
わからない。
なにも知らない彼らには、この状況でどうすることが正解なのか判別できなかった。


だから、

だから──?


 

「…なぁ、おい」

「………」

「お前、これでとどめ刺せよ。頭なぐれ」


 

ただひたすらに、鳩を見つめていたロクは前に伸びる大きな影と、低いその声に顔を上げることができなかった。


彼の手元にある、ロクの顔ていどある石。

言っている意味が、この時ばかりは直感でわかってしまったから。


自分のせいじゃない、なんて口から出すことができない。大きい人は、こわい。うまく呼吸ができない。


 

「だってお前にも責任あるだろ。これでとどめ刺してやれよ。このままじゃ、」


 

──かわいそうだろ。

そっか。
かわいそうだから、頭を殴らないといけないの?

純粋なロクでも、こればっかりは受け入れることができなかった。


きっと、鳩はもっと痛い思いをすることだろう。今の痛みよりも、きっと、もっと。
おれのいる場所より、暗くてつめたい──。


 

「……い、いや」

「………」

「…いやだ…」


 

──ゴッ

視界が、また反転する。


ばたりと軽い身体が吹き飛んで、訳のわからないまま青い空を見つめた。
そっと、隣をみる。

鳩はもう、生きることを諦めていた。

 

 

ひりひりと、痛む頬。
春のさわやかな風が、窓から吹き抜けて彼の髪をゆらした。

窓から見える一匹の鳩は、悠々自適に大きな空を駆けめぐっている。
数日前に死んでしまったあの子はもういない。そんなに辺りを一生懸命さがしたって、どこにもいない。
だって、死んでしまいましたもの。もうあの子は、空を飛べない。


 

「………」


 

窓に手をかけて、ぐっと手を伸ばす。

自由になりたい。
おれも、空をとんでみたい。そして、どこかとおくの町にいってみたい。

そうして、いつか──。

 

 

(……あ)

伸ばした手、今の自分の手。
あの頃に比べれば、ずいぶんと大人になってしまった。俺の手。

ふわり、指先が触れたのは掴めない空でも、いなくなったあの子の残像でもなく、目の前で眠るあなたの柔らかな髪だった。

いつの間にか、彼女が帰ってきていたのだ。
洗濯物をたたんだ後、つい春の陽気に充てられて眠ってしまったロク。そっと窓の方を見れば、もうすっかり暗闇が広がっている。
テレビもついていない静かな部屋の中、ロクはあなたの顔をまじまじと眺めながらほくそ笑む。


 

「(…俺の、前で寝るなんて…すごい、つかれてるんだな…)」


 

今日も、一日おつかれさま。
なんて。いつも、掛ける言葉は今言っても仕方がない。


俺の全部の言葉は、声は、君のためにある。だから、君がおきてから、言おうと思う。
そうじゃないと、だって…。


 

「…ふ、ふふ…」

「………」

「…ん、んー…」

「………」


 

幸せそうな顔をして、眠る君。
もう一生、手に入ることはないと思っていた、俺のゆめ。

気づかれたら、怒られる。
だから、気づかれないように、起こさないようにそっと頬に手のひらを添える。
もう、俺、どこも痛くないよ。
だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。


 

「…ありがとう」


 

今日も、未来も、ずっと。
君がいなくなってしまっても、俺は君を離したくない。

© 2025 蜉蝣lantern

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